松坂智美の自分史

Chronology 自分史年表

0歳 1985年機械製造メーカーの父、元幼稚園教員で専業主婦の母の元に生まれる
6歳  神奈川県相模原市の小学校入学
8歳 父の仕事の関係で、米国イリノイ州シカゴへ。日本人学校へ転入
11歳 父の米国内の転勤でオハイオ州へ。現地校に転入
12歳 TroyJr.HighSchoolに進学
14歳 Troy High Schoolに進学 
16歳 単身帰国。寮に入学し、親元を離れて国際基督教大学高等学校(ICUHS)に進学
19歳 上智大学経済学部経営学科に入学 
21歳 100名の英語ミュージカルサークルの代表となり、3452名集客した公演を成功させる。 
23歳 上智大学卒業。人材教育コンサルティング会社に入社 営業部門に配属後、半年で企画部に異動
23歳 企画部異動後、Webディレクション、DTP制作に携わる。2年間猛烈に働いたが、上長と人間関係が大変悪くなる。
26歳 秘書室へ異動。社長秘書を4年半務める。その間秘書検定1級を取得
29歳 企画部時代の上長と急接近し、交際0日での電撃婚
31歳 長女を出産。半年で仕事復帰
33歳 次女出産
34歳 仕事復帰。時短正社員として在庫管理業務、法務業務を担う
36歳 2021年3月。13年間務めた人材教育コンサルティング会社を退社。AYAクリエイティブを設立。

My Life Stories 思い出の記録

父の米国への転勤で現地校へ。引っ込み思案な性格に

小学校2年生のとき、父の仕事の都合でアメリカのシカゴに住むこととなりました。その2年後にはオハイオ州に引っ越しをしました。もともとは明るい性格の子どもでしたが、英語がうまくしゃべれないというコンプレックスがあり、次第に引っ込み思案な性格になりました。

 

一方、弟は、すぐに英語を習得し、友達も多く、よく現地の子と遊んでいました。そんな弟をうらやましく思う日々が続きました。

 

ただ、アメリカに住んでいたおかげで、自然に英語を習得できました。このとき身に着けた英語力は今も維持できています。アメリカに住んでいたからこそ、多くの観光地にいくことができ、家族との時間をとても有意義に過ごすことができました。

自分を変えたい一心で日本の高校へ進学。友人との人間関係に悩む

アメリカで中学に進学していた私は、日本の漫画を取り寄せて読んでいました。そこで繰り広げられる、日本の中学、高校生の生活、「渋谷109」への強い憧れ、何か自分を変えたいという思いがあり、寮のある高校に進学することを父に直談判しました。

 

結果、入試試験に合格し、家族をアメリカに残して独りで日本の高校へ進学することとなりました。

ここから私は変われる、青春を謳歌するんだという気持ちに意気込んでいましたが、人はそう簡単には変わりません。

すぐに寮の友人との人間関係に悩むこととなり、心細さを感じる日々を過ごしていました。

 

休日にはアメリカで生活している家族に電話をしていました。家族はいつも私のことを気にかけてくれていました。

あるとき、母に「弱音吐いてもいいんだよ」という言葉をかけられ、涙が止まりませんでした。

こんなにも温かい家族がいる自分はなんて恵まれているのだろう、と幸せをかみしめることができました。

ミュージカルとの出会いで3452名の公演を成功させる

将来はバリバリ働くOLになりたいという思いが強くなっており、上智大学へと進学し、大学時代は、英語ミュージカルのインカレサークル(Model Production)にどっぷり浸ってました。

 

大学1年生のとき、役者としてサークルのオーディションを受け、未経験ながらヒロインに抜擢されました。意気込んでいましたが、感情表現が難しく、稽古途中でヒロインを降板することとなり、キャストの一員となることになりました。当時は、舞台監督の求める感情表現ができずに、「なんて薄っぺらい人生を生きてきたのだろう」と、自分に呆れる場面が多くありました。30代半ばの私から見ても、当時の私はぬるま湯の人生を生きていたなと感じます。

 

翌年は同じサークルのプロデューサー(制作責任者)となり、100名のメンバーとともに、3452名を集客し、「チャーリーとチョコレート工場」の英語演目を大成功させました。

入社後の挫折、上長との人間関係が劣悪に

大学卒業後、当時ベンチャー企業だった人材教育コンサルティング会社に入社しました。営業部に配属後、半年で企画部へ異動。右も左もわからないまま、現場で制作ソフトを活用しながらウェブサイト制作、紙媒体の制作業務、ライティング業務などに従事しました。

しかしながら、企画部異動後すぐに同期が上長となり、そもそも性格も考え方も真逆の彼と人間関係が悪くなりました。隣の席にいながら、長文の議論メールを送りあう日々。

仕事もうまくいかず、当時上司の彼に「お前のことが嫌いだー」と泣き出す始末。そんな私を見かねて、人事異動が言い渡され、社長秘書となりました。

 

社長との相性は抜群で、その後累計6年、社長秘書としてのキャリアを積みました。

社長秘書業務は、本当の意味で何でも屋でした。お茶を入れる、スケジュールを管理することはもちろん、グループの医療法人のプロジェクトに携わったり、新会社の新規事業の事業計画書作成、海外からのゲストの通訳など何から何まで多くの仕事を社長の下で経験をさせていただきました。

一番嫌いな人とまさかの交際0日電撃婚

社長の下で経営やマネジメントを学ぶ中で、リーダーに昇格しました。次第に、思考が拡張し、私の考えが、大嫌いだった上司の思考に近づいていくことを感じました。そのことをふと、元上司に打ち明けたところ、急接近。

いろいろと会社の未来について語り合う仲になり、ある日、私が「あなたのことが好きです」と伝えたところ、その場で彼からプロポーズ。交際0日婚となりました。

 

会社の仲間は、彼と私が犬猿の仲であったことは周知の事実であったため、結婚することに大盛り上がり。

 

私自身も、まさか大嫌いだった上司と生涯のパートナーになるとは思いませんでしたが、ずっと彼のことが大好きで、自慢の旦那様です。

子どもとの時間を作るため、脱サラし、自分史ウェブサイト制作をスタート

夫との間に2人の子どもを授かり、時短正社員として働き始めました。しかしながら、子どもを育てながら独身時代と同じような成果を出そうと思ってもうまくいかない日々が続きました。子どもとの時間を犠牲にすることはできないと感じ、いったん会社員という時間を拘束される働き方をリセットし、独立するという選択をしました。

 

2021年4月 AYAクリエイティブを設立。「あなたはあなたのままで素晴らしいをあたりまえに」を事業理念に、おじいちゃんの自分史を制作した経験と、会社員時代に培った制作、ディレクション、ライティング能力を駆使して、自分史ウェブサイト制作サービスをスタートさせました。

2021年10月 夫が神山まるごと高専(仮称)の事務局に就任し、一家まるごと徳島県神山町へ移住。創造的過疎の町として地方創生で注目を集める神山町にて、創造的過疎起業家として活動中。

自分史・家族史ウェブサイトの事業プランが評価され、

2022年1月シニアライフ総研ビジネスアワード、ビジネスプラン賞を受賞しました。また、

2022年2月ウーマンズビジネスグランプリ2022視聴者投票1位を獲得し、オーディエンス賞を受賞しました。